映像資料はこちら

アイヌその真実

The truth of AINU

Team JAPAN

投稿記事

概要 投稿内容 新聞記事ほか 映像資料 記事検索 Menu(予定.6)

アイヌその真実 2015年11月
アイヌその真実 2015年10月
アイヌその真実 2015年09月
アイヌその真実 2015年08月
2015年08月31日by 砂澤 陣
2015年08月31日by Tsubaki Minezaki
2015年08月30日by 砂澤 陣
2015年08月30日by 田原 秀樹
2015年08月29日by Tsubaki Minezaki
2015年08月28日by Tsubaki Minezaki
2015年08月21日by 合田一彦
2015年08月21日by 砂澤 陣
2015年08月18日by 砂澤 陣
2015年08月14日by 砂澤 陣
2015年08月07日by 合田一彦
2015年08月07日by 合田一彦
2015年08月02日by 合田一彦
2015年08月02日by Takahiro Saito
2015年08月01日by 砂澤 陣
アイヌその真実 2015年07月
アイヌその真実 2015年06月
アイヌその真実 2015年05月
アイヌその真実 2015年04月
アイヌその真実 2015年03月
アイヌその真実 2015年02月
アイヌその真実 2015年01月
アイヌその真実 2014年12月
アイヌその真実 2014年11月
アイヌその真実 2014年10月
<< 2015年08月07日 by 合田一彦 2015年08月02日 by 合田一彦 >>
合田一彦
「樺太アイヌの強制移住について」
当時の日本が、ロシアとの国境を定める施策上の都合で樺太に居住していたアイヌ(エンチゥ)を宗谷に移し、後に江別(対雁)に移住させた事実を持って、そこにアイヌの人権を無視した強制移住が有ったという論を述べる人たちが居ます。
で、彼らの言うような「当時の国策としての強制移住」が有ったとして、そこに何か問題でも有るのでしょうか。
今日でさえ、大規模な開発を行う際には強制徴用は有りますし、小規模であっても道路拡張や河川工事のための土地家屋の徴用は有ります。
むろん、何でもお上が勝手に決めて、勝手に強制して良いものでは有りませんが、当時に必要だったから行われたのであって、それを今の基準で批判しても何も生まれません。
それに、彼ら自身、樺太から宗谷への移住については同意していたという記録があり、元々が樺太と宗谷は海峡を挟んで向かい合わせですから、それなりに行き来があった場所なのでしょう。またロシア領に残ってロシア人の下で奴隷的に扱われるよりは、交易の有った和人のもとに行くほうが良いという判断がされたとも言われています。
しかし、移住させた樺太アイヌは840名ほどと言われており、また宗谷には宗谷に居住するアイヌも居ました。
樺太アイヌも宗谷のアイヌも、生業は海辺の漁撈ですから、当時の漁村で突然840名もの人口が増えては、漁場の諍いも生じたことと思われます。
この点については、強制移住を唱える人の中にも、現地組である宗谷のアイヌと、後発組である樺太のアイヌが、相互に協力しあって生活基盤を立ち上げたと考えるのは難しい旨の発言をしており、実際、漁業など生活を巡っての諍いがあったものと思われます。
その結果、宗谷から更に移住して貰う事になる訳ですが、元より明治政府としては寒さに強い彼らアイヌを開拓の軸として働いて貰いたい心積もりも有った訳で、渡りに船と本来の目的地である江別への移住を勧めます。
しかし、樺太アイヌは漁撈の民として、たとえ道央に行くにしても川沿いに下った河口の石狩や厚田での居住を希望し、また居住地を江別と定められたとしても生業としては石狩や厚田での漁撈を主として暮らしたい旨の要望を出したそうです。
しかし、石狩も厚田も古くから漁村であり、石狩アイヌが住んでいた訳です。
ここでまた漁撈生活を受け容れてしまえば、宗谷アイヌとの軋轢の二の舞が予想されるのは明らかです。
何しろ当時の人口で840名が一度に増えるわけです。
現在だって田舎町で840名がいきなり増えたら、それだけの人口を受け容れられるだけの食糧自給も居住家屋も、教育や医療の設備も整えるのは大変です。
ましてや石狩アイヌの生業と競合する漁撈を希望するということは、それだけ漁場での諍いも漁獲を巡っての争いも生じるでしょうが、それを調停するとなれば仲裁に入るお役人が命懸けでしょう。
元から居る石狩のムラビトと、後から来たヨソモノのムラビト、現地組と後発組のムラ対ムラの争いとなれば、すぐに数百人同士の諍いとなりますから、それこそ小銃を持った兵隊数十人くらいで制圧しなければ収まらないほどの大騒動に発展しかねない訳です。
誰が聞いても、そんな危ない橋は渡りたくありませんから、当初の予定通り、開拓&農業への従事を命じたわけです。
そうした漁撈から農業への転換を行わないとすれば、それぞれの漁村で受け容れ可能な数世帯~十数世帯程度の人数ごとに樺太アイヌの人たちを分け、それぞれの受け容れ可能な道内各地の漁村に「転入世帯」として行ってもらうしか有りませんが、それもまた樺太アイヌの氏族としては受け容れなかったでしょうし、仮にそれを強要していたら、今度はそれを指して「樺太アイヌの歴史を、氏族を消し去った」として当時の政策を非難するのでしょうね。
それに、明治政府の時代と言っても、つい先ごろまでは江戸幕府の時代だった訳で、江戸の世界では藩から出て他所の藩に住まう自由も無ければ、勝手に農業を辞めて町人になる自由も有りませんでした。そして、それが当時の普通だった訳です。
お上が決めて、藩ごと移住(転封、移封)となれば、個人の好きかどうか、納得しているかどうかに関わらず、藩主に付き従って移住するよりほか選択肢は無かった時代です。
そうした江戸時代が終わったのが明治維新の1868年で、樺太アイヌの移住が1875年。明治維新の僅か7年後です。
このような時代背景を鑑みれば、国策に対する個人の人権だの居住地選択の自由だの、そうした現代の人権意識で「強制が有った」と非難して何になると言うのでしょうね。
8月7日 0:34
<< 2015年08月07日 by 合田一彦 2015年08月02日 by 合田一彦 >>